【journal】キリストの受難と情熱から学んで
こんにちは。
今日は、受難と情熱について
私のライトワーク体験の学びを交えながら、書かせて頂きたいと思います。
6月の北海道阿寒湖でのライトワークで行ったことの一つに
「自分ではどうにもならないこと」、「自分がまったくの受け身となるしかない出来事」
”受難”によるトラウマの解放も行わせていただきました。
”受難”とは、戦争、迫害、差別など・・・など
「自分で何もしていないのに、どうしてこんな悲しい目に遭うのか理解できない」
こういった現象の影響からおこる悲しみを指します。
実際、受難による悲しみエネルギーを、魂や肉・体心に入れ込んで生きていると
理由がない恐れ・悲しみや不幸感・嫌悪感などに惑わされ、
「いざ、前に進もう!」とした時に、ネガティブな感情が起こり体が動かなくなったりします。
受難による悲しみエネルギーがあることは理解できないため、
いつまでも自分の使命に向かえないことになります。
北海道のライトワークで、受難のエネルギーの解放させていただいたわけですが
そのお手伝いしてくれたのが
龍や人魚、水を司る観音様、精霊さんや、水に関する神界の方々といった、水の存在たちでした。
無事ライトワークを終え、叡智を受け取ったのち
私の中の過去生の”受難”による悲しみは、わき続ける神聖な泉に変化しました。
ワーク後のみの現象でなく、私の中に存在し続けるものとなったのです。
嬉しいことでしたが
「どうして”受難”の悲しみが、神聖なる泉に変わることができたのか?」
という疑問が湧き上がりました。
そして、自分との対話を通じて、受難と情熱の関係についてわかってきました。
北海道阿寒湖でのライトワークから
パッションの語源
<受難>というのは、パッションという意味があります。
そして、<情熱>という意味も同時に持っています。
パッションに異なる二つの意味があるのは、
パッションという言葉がパッシブ、つまり受動という言葉と同じ語源があるためです。
“パッション”という言葉の根源は
「自分ではどうにもならないこと」、「自分がまったくの受け身となるしかない出来事」という<受け身>の意味があります。
そして転じて、「降りかかる苦難としての受難」と「突き動かされる情動としての情熱」という二つの意味が生まれてきたようです。
イエスキリストの受難と情熱
パッションをわかりやすくご説明するために、イエスキリストのお話しさせて頂きたいと思います。
みなさんご存知かと思いますが、
イエスが最後の晩餐で弟子たちと別れを告げ、裁判で死刑宣告受け、
十字架を担いでドロローサの道を歩み、ゴルゴダの丘で処刑されます。
しかし、イエスはこの苦難から逃げることなく、これを引き受けます。
イエスは自分の身に降りかかる受難から逃げず、そこに立ち続けることによって、
この十字架を、人々を救うための「受難の出来事」として引き受けてくださったわけです。
イエスは十字架にかけられながらも、人々を救うために身に起こった受難を受け入れ、立ち続けられた。
これは、ものすごい情熱がないとできないことです。
イエスの中に人々を導くための強い情熱が、受難に立ち向かわせたということです。
このようにパッションという言葉は
<受難>と<情熱>という意味があるけれど
実は1つであることがわかります。
情熱も受難も、どちらも愛であることには変わりありません。
私たちの中にもイエスと同じように、逆境に立たされることで、
その現実を受け入れるという”覚悟と決断”が本質に根付いています。
そして、困難に立ち向かえる<情熱>というエネルギーを発動させることができるのです。
観音様の慈悲にも通じるところがありますね。
ライトワークで自分が神聖な泉となり存在し続けることができるのか、ようやく理解できました。
過去の受けた<受難>は
<情熱>に変えることができる
ただ、その可能性を引き出すには、
<受難>に癒しと解放を起こし、<情熱>が使えるよう整える必要があります。
今週に公開する無償・有償ヒーリングイベントでは
無意識の中ににある受難によるトラウマ、恐れ、悲しみを手放すことを
神聖な泉の叡智を使い、ヒーリングワークでお手伝いさせて頂こうと思います。
受難の悲しみを癒し、解放することで封じ込めていたエネルギーを
自分として生きるための情熱のエネルギーを使うことができるようになるイベントです。
ご案内は今週中になりますので、しばらくお待ちくださいませ。
どうぞよろしくお願いいたします。
今日もお読み頂き、ありがとうございました。